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2011年3月2日水曜日

小説を書いたことはありますか。 「春の心」 

人は誰でも一生に一度は小説が書けるなんていいますが、みんさんは書いたこと、ありますか。
私は、20代のとき、「小説らしきもの」を書いたことがあります。
題名は「春の心」。

主人公「私」と私を取り巻く友人たちと私の彼女の身の上に起こるさまざまなできごとを通じて、生きることへの意味、葛藤、愛、憎しみ、挑戦、挫折、試練、希望など、さまざまな人間模様を描きながら、生きることの意味、人を愛することの意味を考えようとした小説でした。
いや、正確に言うとそのつもりで書きました。

主題は、自然界の春と人間世界、人生の四季の一つとしての春との対比。自然界は今まさに春なのになぜ、人の心は厳しい冬のままなのだったりするのだろうかということです。
あらゆる生命体が厳しい冬を乗り越え、息吹き、春を体いっぱいに感じている。
緑が萌え花は咲き誇り、小鳥は歌い犬や猫も虫たちも大喜びだ。
しかし、私の心はなぜか、つらく憂鬱な毎日、冷たく色彩(いろどり)のない冬のまま。
陽光の眩しさに目を細め、思わず手で顔を覆ってしまう。太陽の光さえ、疎ましいのだ。
満たされぬ心、やりきれない断絶と絶望が私の心にあふれる。
自然の運行と人の心の動きは、なぜか連動しない。

物語は、春の陽の穏やかな瀬戸内海の見える丘の上、遠くにはかすんで島々が見える、眩い陽光が鏡のような海面に反射して目に飛び込んでくる、そんな叙情豊かな瀬戸の海を眼下に見下ろす私のお墓の前で、主人公「私」の親友と私の彼女とが私について、「あんなことがあったわ。」、「そう、こんなこともあったの。」、と懐かしく話している。生きることに一生懸命であった私について、実は回想していたという話なのである。
この小説を最後まで読んだとき、この物語は回想録だったことがわかるようにした。

私は墓の中にいたのである。
最後まで読んだとき、「それで、結局、『私』は死んだんだ。」とわかり、どうして私は死を選択したのか、どうして死ぬ必要があったのかを問う。
「どうして、そんなことで死ぬの。」と思う人、「わかるよ、誰だって死にたくなる。」と、考え方は人それぞれであろうと思う。
それは、人それぞれ、人生の経験が違うからである。それは、人それぞれにその物語を読んだときの心のありよう、心理状態、精神状態が違うからでもある。
死を笑うことは簡単です。私たちは、死を選んだ人の苦しみをどれだけ理解しただろうか。
死は決して他人事ではない。
誰でも自殺しないにしても、「死にたい。」と思ったことはあるはずです。
もう、このあたりで「店じまい」しようかって。
生と死は実に隣り合わせで人の心に棲んでいます。
それを微妙につないでいるのは「愛」ではないでしょうか。

「無縁社会」という言葉をよく耳にし、活字でもよく見ます。
こんな悲しいことが、こんなさびしいことがあっていいのでしょうか。
そんな思いをする人が、もし、あなたの大切な人であったら、あなたはどうしますか。

あなたは「愛」を粗末になんかしていませんよね。

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