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2011年5月3日火曜日

想定外のことは起こっても何ら不思議ではない

「なんでこんなことが起こったのだ!」
「どうして、こういうことが起こることも分からなかったのか!」
「どうしてこういう事態が起こることを想定して対策をしておかなかったんだ!」

「自然は時として牙をむいて、我々に襲いかかって来る。」
「自然は人へ優しさや安らぎを与えてくれるが、その自然の裏側には恐ろしい残酷な顔がある。」

のような意見を言っている人が沢山いますが、こういう考え方は適切な認識でしょうか。

この世の中で起こり得ることは、すべて想定できる、想像し得ると思うのは「おごり」でないでしょうあか。
人はこの宇宙のできごとのどれだけを知っているでしょうか。
ほとんど何も知らない、分かっていないというのが現実ではないでしょうか。
「そんなことはない、かなりのことが分かって来ているよ!」という人がいるかも知れませんね、
それは現在、我々人類が知っていることがこの宇宙、森羅万象のほとんどすべてに近いと思っているからです。
宇宙と言わず、この地球のことも、我々の身体のこともほとんど分かっていないのが事実ではないでしょうか。
かなり知っているように見えても、それはほんのわずかです、極一部に過ぎません。
まず、我々はこの世の中のことについて、これだけ科学が進んでいるように見えても実はほとんど分かっていないことを認識すべきです。
そう思えないのは「おごり」があるからです。
「分からない」から分かろうとして努力し探求する。そうするとその分少しだけよい生き方ができるようになるということではないでしょうか。

今回の東北大震災は、一般的には想定外ということかも知れません。
しかしながら、阪神・淡路大震災後、地震調査研究推進本部が設置され、最新の地震研究成果を取りまとめ全国地震動予測地図というものを発表していますが、その中で、宮城県沖の大地震M7.5前後は向こう30年以内に起こる確率は99%と発表されていました。また、三陸沖南部海溝寄りの領域と同時発生の場合、M8.0前後と予想されていました。
これから起こる地震では、想定東海地震M8.0程度87%、東南海地震はM8.1前後が60~70%、南海地震はM8.4前後50~60%と予測されている。これらの地震が他の地震と同時に発生する場合はおよそプラス0.1~0.5と想定される。※詳細は、「全国地震動予測地図 2010」を参照ください。
http://www.jishin.go.jp/main/chousa/09_yosokuchizu/index.htm
東北大地震は、M9.0でしたがこれは複数の地震が連続して発生しこの評価になったと聞いています。この規模の地震を想定していた人はたくさんいるでしょう。
このときの津波がどの程度のものかは過去の文献や言い伝えからもかなり想定されてしかるべきだったかも知れません。
しかし、世間一般的では想定外でした。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。
我々の中に「おごり」や「甘さ」があるからでしょう。高をくくってしまって、いわゆる「思いこみ」といえるかも知れません。

自然の脅威、自然への畏敬の念は忘れていけません。
自然は、人間の力で、人知で、抑え込めるようなそんなものではありません。
自然は、偉大で、巨大で、繊細で、大胆で、優雅で・・・ すべての形容が当てはまるほどの多様性、多面性を持っています。
そういうものなのです。
それを人間が勝手に、自分たちの都合のよいように自然を形容し思い入れ、思い込みを持っているに過ぎません。
自然はそんな人間の思いなど知っちゃいません。
我々は自然のあるがままの姿を受け入れ、自然の中で生きて行くという姿勢を持つことが必要です。
自然の中で生かされているというくらいに考えてちょうどいいのではないでしょうか。

大事なことは、
我々は自然を抑え込むことはできないということ。
想定外ことが起こるのは何も不思議なことではない、極当り前のこと。
人はこの宇宙の運行、自然の姿についてほとんど何も知っていないということ。
想定外のことは起こり得ることを想定して、そんなときにどういう行動をするかを予め決めておくこと。
想定範囲は常に最新にしておくこと。
自然の猛威に対する備えには限界があること。
ただ、備えをしておくと被害を少なくすることができること。

人は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言います。確かにこの「忘れる」ということは生きる上で大変大切なことですが、何もかも忘れてはいけません。
学習したことを明日のために、未来の人類のために残す努力をしましょう。

2011年5月1日日曜日

しかし、大変なのはこれから・・・ 「どうして・・・こんなことに・・・」という思いが

人は、大事なものを失うとそのときは勿論大変だが、むしろしばらく時間が経ってからの方がずっとずっと辛い。
私自身も自分の命と同じくらい大事なものを1週間の差もなく同時に複数失ったことがある。
そのときはおまけに進行がんに罹っていて、数年後に訪れるであろう死に直面していた。
ただ、手術はまだ受けることができなかった。
自分の身体よりも切迫した事由があったからだった。
8ヶ月後、がんの手術をした。幸いというか奇跡的に死の淵から蘇った。
執刀医の先生も運がいいと驚いていた。

しかし、それから半年くらいして「喪失感」というものを味わった。
夜、ジョギングしてると自然に涙が溢れて来た。
悲しいとか辛いとか思わなくても涙がポロポロ出た。
本当を言うと、涙が出るから人目を避けて夜に走った。
さらに精神的に辛いからもっと苦しい「走る」という苦痛を与えることで自分を誤魔化すために走った。
毎日、走った。毎回、涙が溢れた。
もう何もほしくないと思った、ずべての希望や夢が消えていた。
いつでも死ねると思った。この世に何の未練もなくなった。
こんな毎日にさよならするのに1年以上かかった。
たくさんの本を読んだ。藁をもつかむ気持ちで、どこかに生き延びる光がないか、どうすれば元気なれるか、どのような考え方をすればこの精神的苦痛から脱出できるか探した。
潰れそうな自分の心を励まし励まし、勇気づけ、元気になれと自分に言い続けた。

大震災で家族を失い、大切な友人を失い、住むところさえ失ってしまい、
財産もすべてなくした人もおられるだろう。
生きていること自体が地獄に感じるかも知れない。
自分も一緒に死ねばよかったと。

一人ぼっちでいる時間はできるだけ少ない方がいい。
家の中にいるよりは、用がなくても外に出た方がいい。
辛いとき、悲しくて仕方ないとき、もう死にたいと思うとき、1時間以上、歩いたり走るといい。
自分の気持ちを素直に紙に書いてみるといい。
思うことを全てを紙に書いてみるといい。

人生を止めるのは、今でなくてもいつでもできますよ。
急ぐ必要はない。今でなくても、明日でもいい。
明日でなくても来年でもいい。
別に自分で時期を決めなくても、自然に来る最期のときでもいいじゃないですか。
自分でも気がつかないままに心肺が停止するときまで待ってもいいじゃないですか。

それまでいいことばいっぱいあるかって? そりゃー、ない。
いいこともあるけど、やっぱり辛いことや苦しいことが多いかも知れない。
だけど、予想もしなかったようないいことがあるかも知れない。
素敵な人との出逢いがまたあるかも知れない。
昔のように、青い空に浮かぶ白い雲を見ながら、草の原に大の字に寝っ転がって、
胸一杯に空気を吸って、「あー、生きててよかったなー!」って、思うことがあるかも知れない。

あなたのそばに私がいるように、
私のそばにあなたがいる。

私はそんなあなたが大好きだ。